尾道のゲストハウス「あなごのねどこ」に宿泊し、翌日尾道散策をしました。
参考:尾道のゲストハウス「あなごのねどこ」宿泊体験記
散策を始めてから真っ先に向かったというか、歩いていたら案内を見つけたので、ふらふらと入っていったのが、天寧寺(てんねいじ)というお寺です。
あなごのねどこでは、千光寺がおすすめと聞いていたのですが、まずは天寧寺に行きました。
天寧寺へ向かう
商店街を歩いていたら、脇にお寺への案内があったので、それに釣られて歩いて行ったのだと思います。JRの線路沿いまで来ると、天寧寺への案内がありました。
お寺へ到着する間近で大きな石碑がありました。なんて書いてるのか私には読めません。
いよいよ入り口。手入れがしっかりされている木に少し癒されます。中へ向かいます。
ちなみに入り口横には、天寧寺の教え?と思われるありがたいお言葉がありました。
心の豊かな人は他人の長所が見え
心のまずしい人は他人の欠点が見える
まさにその通りですよね。なんでもかんでも批判する人って思ってたより多いです。自分がそうならないように常々気をつけています。
天寧寺の歴史について書かれた案内板がありました。天寧寺は室町時代にできた歴史あるお寺で、何度も形を変えて今の姿になっているそうです。
天寧寺(曹洞宗)
開基は貞治六年(一三六七)に尾道の人万代道円の発願により、足利二代将軍義詮が父尊氏の遺志をついで工費を寄進し、普明国師を講じて開山したもので、宗旨は臨済宗、創建当時は東西三町にわたる宏壮な大寺院であった。本尊は宝冠の釈迦如来。
康応元年(一三八九)三月、足利三代将軍義満は厳島参詣の帰途、船を天寧沖にとどめ船橋をかけさせて上陸し、この寺に一泊して備後の守護山名氏の餐応を受けた。永禄(一五五八〜一五六九)の頃、足利十五代将軍義昭の帰依を受け、歳米、禁札、下馬札を下賜された。元禄年間(一六八八〜一七〇三)に、三原の宗光寺の一雲椿道によって再興され、そのとき改宗して曹洞宗になたが、天和二年(一六八二)雷火のため全山焼亡、わずかに後山の海雲塔を残すのみであった。
この塔はもと五重塔で嘉慶二年(一三八八)の造立であるが、元禄五年(一六九二)に至って、永年の風雪のため上層部を損じたので、五層を改めさせ現在の三層の姿とした。塔前の碑は広島県下で最初の女性教師植村雅子先生の記念碑である。
また本堂前の羅漢堂には、江戸中期から明治期にかけて檀信徒から寄進された五百羅漢像があり、本堂西側には古の山門の礎石という巨石をのこしている。
三重塔(海雲塔ー重文)
地蔵菩薩半迦像(市重文)
天寧寺の様子
私が天寧寺に行った時は4月上旬で、ちょうど桜が咲いていました。尾道は温かいのか、他の地域よりも早く桜が咲いていたと思います。
立派な枝垂れ桜もありました。人がたくさんいて、皆立派なカメラで撮影していました。枝垂れ桜に近付くとミツバチもたくさんいました。
歴史あるお寺だからか、お寺に入った時の雰囲気が違います。
五百羅漢の像が圧巻だった
天寧寺の散策で印象に残っているのが、五百羅漢の像を見たことです。下の写真の建物の中に大量にいます。
とにかくいっぱいいます。面白いのは1つ1つ顔の表情が違うし、大きさも微妙に違うことです。五百羅漢は初めて見たので、異様な光景に驚きました。
全部で526体もいるそうです。文字通りですね。
天寧寺の三重塔へ
天寧寺の奥には三重塔もあります。少し離れたところにあるので、気になって行ってきました。
少し坂をのぼることになります。少々キツイですが、後ろを振り返ってみると、尾道の町並みと遠くに海を見ることができ、爽快な気分になります。
桜も咲いているのがいいですね〜。
しばらく歩いて、天寧寺の三重塔に着きました。1388年に建ったという歴史ある建物です。
塔が間近にあり、近くから全部を写すことができないので、塔の木材を写してみました。いい感じに色付いているのがいいですね。
三重塔から少し奥に行ったところで全体が写った写真を撮ることができました。かなり大きかったですよ。屋根の形も波打っているようで美しいです。
天寧寺の散策だけでも結構満足しました。でも、この日の尾道散策は始まったばかりです。天寧寺の三重塔からまだ上にのぼって行くことができるので、道沿いに進んでいくことにしました。
千光寺(せんこうじ)編へ続く。
→ 尾道の千光寺(せんこうじ)は日本有数の眺望スポットです
住所:広島県尾道市東土堂町17-29
[map lat=”34.409773″ lng=”133.20068″]天寧寺[/map]